ピサロの征服)  アタワルパの処刑)  1519年に建設されたパナマ市の市民であったピサロはコルテスによるア  ステカ征服の再現を夢見て、南にあると思われる未知の文明を探すことを思  い立った。パナマ総督から許可をとって1524年末に出帆した。その時は  あまり進めなかったが、1526年に再び探検に乗り出したピサロはインカ  の北端の町トゥンベスを発見して広大なインカの存在を知ることが出来た。  その調査結果を元にスペインに戻り、1529年スペイン国王のお墨付きを  得ることに成功した。これは征服の許可というものだったし、ピサロは征服  後にインカの総督に、ピサロのインカ探検時の部下アルマグロはトゥンベス  の要塞の司令になることも許され、巨額の俸給も約束された。その資金は略  奪品から賄うことになっていた。  ピサロは1531年にパナマを経由してトゥンベスへ着いた。しかし、その  時にはインカの内紛の最中であったためトゥンベスは破壊されて荒廃してい  た。ここでピサロは内紛のことを知った。その内紛がアタワルパとワスカー  ルの間に起こっていることや、アタワルパがクスコを占領したことも知った  ピサロはアタワルパに会いに行くことにした。  1532年にピサロはカハマルカに到着した。そこからアタワルパに使者を  送り、招待をした。それに応じてカハマルカに着いたアタワルパはスペイン  人の不意打ちを受けて、捕虜にされた。圧倒的に少ないスペイン人から多く  のインカの兵士は殺されてしまった。  アタワルパの釈放に代償に多くの宝を受け取ったピサロらは、釈放に応じず  1533年にアタワルパを絞首刑に処した。  ちなみに、多くの宝のうち貴重な金細工も溶かされて、延べ棒にして征服者  によって分配されました。