ピサロの征服)  混乱)  1534年にマンコが即位してから、マンコはアタワルパのエクアドル勢  を討伐した。そして祝宴を催して、スペイン人によって宿敵を倒せたこと、  キリスト教によって支配されることた幸せであるとした。  その後、ピサロ=フランシスコ・ピサロはリマでの首都建設を開始し、武将  のアルマグロはチリ遠征に出発した。クスコはピサロの弟たち=エルナンド  、ゴンザーロ、ホアンに託された形となった。  1536年にマンコはユカイの谷に陣取り、スペイン人に対して反乱を起し  た。クスコは一時期完全に包囲されてしまった。インカ側の数は10万人と  も言われる。クスコに近接するサクサワマンの砦からもクスコのスペイン人  に向けて攻撃するなど、スペイン人はクスコを放棄しようと思う程の状態ま  で至った。このころホワン・ピサロも戦死してしまった。  その後多数の兵の兵糧に困ったマンコは兵を帰し、マンコ自身はオリャンタ  イタンボの砦で守りに入った。エルナンド・ピサロはこの砦に攻撃をしかけ  たが、その守りは堅く、結局は攻撃を諦めた。  1537年にチリ遠征で成果を得られなかったアルマグロはクスコへ帰る途  中にマンコの反乱を知り、マンコと結びピサロ一派を亡き者にしようと画策  した。しかし、エルナンド・ピサロの使いのものがアルマグロに近づくのを  知ったマンコは、アルマグロもエルナンド・ピサロと協力して罠を張ってい  ると思い、アルマグロに攻撃を仕掛けた。これに敗れたインカ勢はオリャン  タイタンボより山奥のビルカバンバへ引き込んだ。(アルマグロと手を組ま  なかったのはスペイン人は信用できないことが骨身に染みていたからだと思  います。)  マンコのインカ勢を撥ね退けたアルマグロは、勢いに乗りピサロ一派が治め  るクスコを制圧した。  1537年の末にはアルマグロとリマにいたフランシスコ・ピサロとの話し  合いでピサロ一派のエルナンドらは釈放された。そして、この争いはスペイ  ン国王に決めてもらうことにした。  しかし、その後すぐにフランシスコ・ピサロはアルマグロを反逆者と決めつ  けて、討つことにした。エルナンド・ピサロは軍を率いて、クスコへの帰途  にあるアルマグロを追走した。  1538年の春、ラス・サリナスでの決戦により勝利を得たのはエルナンド  ・ピサロだった。アルマグロは捕まって、処刑された。  その後、アルマグロの子どものディエゴやアルマグロ派の残党はピサロと敵  対し続け、1541年にリマに在宅中のフランシスコ・ピサロを暗殺するこ  とに成功した。この混乱の中で結局アルマグロの子ディエゴも追われる身と  なり、マンコの協力も得たが1542年に捕まり処刑された。    1544年にゴンサーロ・ピサロがスペイン王の征服者への権力の制限をも  くろむ法律に対して反乱をしたときには、マンコのインカ残党はスペイン国  王側に謝罪と協力を申し出こともあった。しかし、和解するに至らなかった。  1548年にゴンサーロ・ピサロの反乱が抑えられ、ゴンサーロ自身も処刑  された。    征服者たちの争いの中でも、マンコ率いるインカの残党は奥地に存在し続け  たのである。このマンコ以降に数代続くインカをビルカバンバ帝国と呼ぶこ  ともある。