ピサロの征服)  ビルカバンバ)  1544年にマンコのインカ残党はスペイン国王側に謝罪と協力を申し出こ  とが駄目になった理由は、実はマンコがスペイン人に殺されたことにあった  のである。  1545年には皇帝にサイリ・トゥパクが即位した。この後の1548年に  ゴンサーロ・ピサロが滅ぼされた以降は、インカの残党たちはあまり抵抗を  しなくなったようである。これは征服者のピサロ派が根絶やしになったから  だと言われる。この後、スペイン国王側との和解が進み1555年にはクス  コにサイリ・トゥパックは現れ、スペイン国王に承認されてビルカバンバで  はなくユカイに住むことになった。サイリはビルカバンバの中心であり、都  であるビトコスのことを話さずに暮らした。1560年にサイリは病死した。  ビルカバンバのことを話すインカの民は皆無で、謎のままであった。  その後サイリを継いで即位したのがティトゥ・クシである。スペインと懐柔  したのは見せかけだったようである。ビルカバンバのティトゥ・クシは頑と  してスペインとキリスト教を受け付けなかった。宣教師たちはビルカバンバ  での布教を口実に入り込もうとしたが無駄に終わった。クシの都はビルカバ  ンバ・ビエハと言うことが宣教師たちによって語られたが、その場所のこと  はわからなった。  ティトゥ・クシが病死した後に即位したのがその弟のトゥパク・アマルであ  る。トゥパク・アマルの時代においてもスペインに対して敵対したので、掃  討作戦が実施され、その時にトゥパク・アマルも捕虜にされ、その後拷問を  受けた末に処刑された。その時にもやはりビルカバンバの詳細やビトコスや  ビルカバンバ・ビエハのことは話さなかった。  ビルカバンバの一部に行き着くものはあったが、その都に誰も行き着いたも  のはいなかったのである。そして、その場所へ誰も行き着けないまま、イン  カという存在が消えてしまった。  ビルカバンバの遺跡の研究が進むのはインカが滅んで数百年をおかなければ  ならない。