マヤデータ イッツァ) マヤ族の文明は華やかであり、現在では考えられない密林から海岸までに多く の神殿が作られた。この多くのマヤが衰退して行った後、その空白をつくよう に登場したのがイッツァ族です。 彼らがどこから来たのかはよく分かっていないが、いくつかの文献では現在メ キシコのタバスコ州のある場所に住んでいたマヤの一支族チョンタル族の一集 団であったのであろうといわれる。 彼らの放浪についてはマヤの有名な予言書「チラム・バラム」の中のティシミ ン、マニ、チェイマルの書が語る年代記の中に書かれている。この文献などに よるとチャカンプトゥンから出発している。ここから密林地帯を抜け、ペテン イツァという名の湖に辿り着き、ベリーズ川を下って、東海岸に出た。更に海 岸沿いに北上し、ユカタン半島の北に出る。更に西へ向かって、遂にチチェン ・イッツァに到着する。この地はトルテカの文化の影響を受けた土地であり、 既に多くの建造物があったが、それらを建造した人たちは去った後だった。こ の空き家というべき都市を占有してこの土地がチチェン・イッツァという名前 になったわけである。(13世紀の前半の出来事らしい) 彼らの首領はククルカンを名乗っていた。かつてのトルテカの首領であるクク ルカンを模倣したものであると考えられている。(くれぐれもトルテカのクク ルカン=ケツァルコワトルと混同しないこと。) その後、イッツァ族はチチェン・イッツァを中心にユカタン半島を支配したが、 イッツァ族の手で建設したマヤパンのココム家が武力行使によってマヤパンを 中心としたユカタン半島支配を確立した。ユカタン半島の住民であるマヤ族の 人々の中の一部の人はマヤパンに強制的に住まわされたりしたようである。 ユカタン半島の近くに浮かぶ島であるコスメルにはイシュ・チェルを祭った神 殿での儀式には多くの巡礼が行われたようである。この儀式が始まったのはイ ッツァ族が繁栄したころだったようである。 またチチェン・イッツァにはトルテカが持ち込んだ人身御供のための石像であ るチャックモールや生け贄を投げ込む池である聖なる泉(セノテ)があり、多 くの人々が犠牲になったようである。 マヤパンはチチェン・イッツァを模倣して建設されたようで、ククルカンの神 殿などがあったようである。これらはあまり出来のいいものではなかったらし い。トルテカのような高い文化レベルを持てなかったのだと思われる。 15世紀の中盤になるとチチェン・イッツァのイッツァ族は近隣のイサマルと の紛争が原因で逃亡した。またマヤパンのココム家も内部紛争によって殺され てしまった。その後、マヤパンも破壊されしまった。これによって、この地方 は小さい集団が乱立することになる。 チチェン・イッツァから逃亡したイッツァ族は生き長らえて、ペテン・イッツ ァ湖に浮かぶ小島にタヤサルを建設して細々と生き続けることになる。このタ ヤサルがスペイン人に陥落させられるのは17世紀後半のことだったという。 ちなみにイッツァ族はマヤ族を支配したが、マヤ族からは軽蔑されていたよう である。ペテン師とか何とか言っていたらしい。また、イッツァ族は特有の風 習を持っていたようである。それは神官以外の50歳を越える父母を悪魔にな ると信じており、殺すという風習である。この風習から周りの部族からは「父 母のいない人々」などと呼ばれていた。こういう風習からも軽蔑の対象になっ たと思われる。